(1907- 1978)
1930年(昭和5年)、「廣野ゴルフ倶楽部」(兵庫県)のコース設計で来日したチャールズ・ヒュー・アリソンは、コース設計図を作成した上で帰国した。上田は、廣野ゴルフ倶楽部の造成工事に加わった、ゴルフは知らなかったが大学で林業や造園学を学んだことを買われ、造成現場で助手として手伝った。上田は、廣野ゴルフ倶楽部が開場した後も、嘱託として残りグリーンキーパーとして働いた。
1936年(昭和11年)、第11回ベルリンオリンピック競技大会で、水泳の審判員として参加、大会終了後は、欧米のゴルフ場を渡り視察した。1940年(昭和15年)から1954年(昭和29年)の間、廣野ゴルフ倶楽部の支配人を務め、大戦中に滑走路や農地になったコースを、アリソンが描いた設計図を見ながら復元した。
後日、上田治にとって、アリソンの元で働いた影響や、スコットランドで得た知識は大きかった[1]。土木建設機械を駆使して土を動かし大地を造り、そこに変化に富んだコースを造り戦略性を高める手法である[1]。一方では、造園技術で日本古来の様式ともいえる借景の手法を取り入れている。
井上誠一は「霞ヶ関カンツリー倶楽部」(埼玉県)で、上田治は「廣野ゴルフ倶楽部」で、アリソン設計のコース造成に加わったことで、コース設計家へと進むきっかけになった。井上と上田は良く比較される、東の井上、西の上田と、作風からは柔の井上、剛の上田とも評される[1]。また、井上はゴルフ用地選びには厳格だった、ゴルフ場に向かないと見たら決して造らなかった、だが、上田は難しい用地でも造るのがプロの仕事と言って引き受けた。
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